希死念慮はないけど未来の自分に希望が持てなくて、春。
こんにちは、ジタバタOLです。
お医者さんに「死にたいわけではないけど人生あと70年と考えたら辛い。自分に希望が持てない。」と伝えたら
「70年も生きるかねぇ」
「今死ななくてもどうせいつか死ぬよ?」
とか言われて「メンヘラあしらいが上手いなぁ」と思うなどしました。
しかしどうしたもんかなー、心も体も弱くてイヤなのでとりかえっこしたい。
でも心も体も取り替えちゃったら果たしてそれは私なんだろうか。
まるでradwimpsのソクラティックラブのようなことを考えています。
人間が「地の塩 世の光」であれば、私なんて塩の柱ができるほど泣いてると思う。
少なくとも小さな聖母子像くらいは作れると思う。
でも、私、自分が「地の塩 世の光」感はないんですよ。
私の周りのたくさんの優しい人たちが私を良きものとして認めてくださってるのは知っているのです。
なんでありがたい。
その気持ちに応えるべくニコニコと朗らかに生きていきたい。
その一方で、弱っちい自分が嫌いで辛くて苦しくて、
「皆さんの優しい心に支えられて生きてきたけどもう辛いです。辞めたいです。苦しいです。主よ。」みたいな津波に襲われます。
それ故に、自分に自分で希望が見出せないわけなんですが、自分の幸せは自分の心が決めるわけなので、このままじゃ生きていく間ずっと「死神といっしょ♡」みたいな。
嫌なゲームやんか。
やってられへんわー!!
理想は理想で横に置いて、何者でもない自分を愛するのが本当に難しい。
父親に「何者でもない私を愛して欲しかった」と昨年泣きながら伝えたけど、そういえば何者でもない私でも愛してたかの回答を聞き忘れたな。
「愛していたけど、君の望む愛し方ではなかったんだな」って言われたのを覚えてるけど、あれは何者でもない私でも愛してた宣言だったんだろうか。。
父に求めてもらえなかった無償の愛を、私は結局自分自身に与えられない。
うーん、苦しい。
存在そのものが祝福されてるって信じるのは相当タフだ。
役に立たないと社会に居場所がない、と思っている。
社会に居場所がない自分を、せめて自分の中では居場所作ってあげないといけないけど、それが上手くできない。
みんな泣きたい時とか辛い時とかあるだろうに、どうやって生きてるんだろう。
泣きたい気持ちを抑えて仕事したら笑ったりしてるんだろうけど。
まぁでもこうやって気持ちを整理して書けることが唯一私の支えになるな。
ブログをやってて良かったのは、こうやって排出する習慣ができたことかもしれない。
辛いことを言葉にして心から一旦出せるのはセラピー効果が高いと思う、なんとなく。
ナメクジって塩でも砂糖でも溶けるらしいんですよ。
浸透圧の問題だから。
しょっぱくても甘くても過剰に近づくと溶けてしまうなんて、人間と一緒ですね。
今日はとりとめないけど。
何度も何度でも言葉の力を信じて立ち直って生きていくしか術はない。
バタ子でした。